2019年


ーーーー1/1−−−− 元旦礼拝


 今日は元日。一年の最初の日にマルタケ雑記を書いている。このようなことが過去に何度あったかと調べてみたら、2008年と2013年の二回だった。同じようなことを2013年に書いていたが、さっき見るまで忘れていた。2008年は、大晦日の月曜日の夜、日が変わる(年が変わる)直前に記事を書いていたようである。

 朝食を終えると、元旦礼拝に出掛けた。いつもの主日礼拝(日曜日の礼拝)より参加者が多いように感じた。見たことが無い人も多かったので、帰省して参加した人もいたのだろう。

 元旦に礼拝をするというのは、キリスト教会も初詣という日本の習慣に合わせているのかと思ったら、そうではないようだ。キリストが生まれて八日目が1月1日に当たり、命名祭という名の礼拝が世界中のキリスト教圏で行われているとのこと。

 日本の習慣に合わせているのかと勘違いした理由はある。私が通う教会では、8月中旬の主日に、永眠者記念礼拝というのを行う。それはお盆に合わせて実施していると聞いた。日本では、特に地方では、そういう配慮も必要なのだと、考えさせられた。

 ともあれ、一年の初めに祈りを捧げるというのは、宗教を越えて大切な事ではないかと思う。元旦の礼拝で牧師様が述べられた説教は、いつもに増して力のこもったメッセージであった。

 今年の教団標語は、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」

 悪というのは、我が身の中にある。その悪に打ち勝つことは、人の本質として不可能。しかし神様はそれを哀れんで、赦して下さる。その神様の愛を信じ、その御心に全てをゆだねて、心安らかにこの一年を過ごせますようにと祈った。

 



ーーー1/8−−− シンシナティー オハヨウ


 新年にお笑いネタを一つ。

 インドネシアの化学プラント建設現場に出張していたときのこと。米国のガスタービンメーカーから派遣されていたサービスマンの男がいた。名前はたしかヤピース。とても体が大きい(太った)男だった。毎朝の通勤時、宿舎から現場まで5分ほどをジープに同乗したのだが、ジープの後部ドアから乗り降りするのがとても窮屈そうで、気の毒なくらいだった。

 彼は、純粋な白人系というより、メキシコ人の血でも混じっているような風貌で、巨漢のわりには愛嬌がある人柄だった。家はサンディエゴにあるそうで、時折現場の風景を眺めながら、「早くサンディエゴに帰りたい、ああ、わが心のサンディエゴよ」などと言った。

 ある朝いつもの通りグッドモーニングの挨拶を交わしたら、ヤピースは「日本語では朝の挨拶を何と言うのか」とたずねた。私が「おはよう」と答えると、彼は「オハヨウ、オハヨウ、・・・」と何度もつぶやき、最後にボソッと言った

 「シンシナティー オハヨウ」




ーーー1/15−−− 丸太を担いで下ろす


 昨年の裏山登りトレーニングの効果があまり上げられなかったのは、マツタケ山に時間を取られたことの他に理由があった。それは、重荷を背負って登ることができなかったからであった。

 ここ例年の裏山登りは、シーズン初めは空身で登るが、慣れてくるとコンクリートブロックなどをくくりつけた背負子を担いで登ることにしている。その重さは15キロから25キロ。この負荷がトレーニング効果を上げていたことは間違いない。

 昨年シーズンは、それができなかった。何故かと言えば、丸太を山から下ろすという作業を伴ったからである。下りに丸太を担ぐので、上りは空身で登らなければならないというわけ。

 丸太を下ろすというのは、薪ストーブの燃料にするためである。そういうことになった経緯は以下の通りである。

 シーズンの初めに登ったら、稜線の北側の林に、新たに伐採された区画があった。冬の間に誰かが切ったようである。どういう目的かは分からない。切り倒された樹木は、斜面に横たえられたままだった。

 地元の山に詳しい人に聞いてみた。すると、森林組合が委託されて間伐整備を行ったところだと言った。本来なら、切り倒した丸太は運び下ろして利用すべきだが、予算が限られているので、伐採現場に放置し、腐れて土に戻るのを待つという施業法とのこと。

 私が、丸太を頂くわけには行かないだろうか?と訊ねたら、そこは財産区なので、区の住民が持っていくのは構わない。むしろ、森林資源の有効利用という観点から、どんどん持っていくべきだと励まされた。

 頂くと言っても、簡単なことではない。まず初回、チェーンソーを担いで登って、目ぼしい丸太を90センチ単位で切断した。その次からは、背負子を担いで登り、丸太をくくり付けて少しずつ下ろした。その重量は、軽いときで20Kg、重いときで50Kg。さすがに50Kgはこたえた。下りだけなのに息が弾む。途中、疲労のため休憩を入れたほどであった。滑って転んだりしたら怪我は免れないので、一歩一歩が真剣だった。

 かくしておよそ3ヶ月の間に34回かけて、目標の1トンを達成した。山の上にはまだ切断した丸太が残っているが、それらはまた来シーズンに回収しよう。

 左の画像が、山から下ろした丸太の全容。これで1トンあるのかと思うが、毎回体重計に乗せて計り、集計したので間違いは無い。

 この画像に写っている中でも、太い丸太は一本で15Kgはある。木は見た目より重いのである。

 後日これらを玉切りし、割って薪に作った。それらを薪ラックに積んだら、ちょうど一基ぶんだった。あれだけ苦労をして一基分とは、ちょっとがっかりした。自然界の物量というのは、なかなか把握しずらいものである。

 ともあれ、これらの薪をストーブで燃やすとき、あの苦労が思い出されるだろう。その記憶だけで、熱くなりそうである。

 





ーーー1/22−−− ブエノスアイレスのタクシー運転手


 世界各地の都市でタクシーに乗り、運転手に話を聞くという番組をたまたま見た。その日の舞台は、ブエノスアイレスだった。

 65歳の、チョイ悪おやじという感じの運転手。女性の話になると、止まらない。運転しながら、脇を自転車で走る若い女性に「日本のテレビ局のカメラだよ、綺麗な女性を撮りたいんだそうだ」などと声を掛ける。 

 その運転手の会話は、なかなか聞き応えがあった。

 「自分でブドウを育てて、ワインを作っているよ。この国のマルベック(ブドウの種類)が好きなんだ。本当に優しい、柔らかい味でね。女性を愛するようにワインを愛さなければならないね。ワインを飲めば、自分の本当の気持ちを感じることができる。ワインを飲むのはいつだって、喜びのため、楽しみのため、歓喜のため。本当のワイン好きは、飲むのをいつストップするべきかちゃんと分かるんだ。ワインも女性も、一線を越えちゃいけないってことだな」

 「この世には二種類の結婚がある。幸せな結婚と、一生続く結婚だ。分かるかい?」 取材スタッフが首を横に振ると、「幸せな夫婦でも別れることはあるし、一生続くから幸せってことでもない」。ちなみに彼は、40年前に結婚して、いまでも奥さんと一緒だと言う。

 「俺は知的な人に憧れるんだ。自分のことを知的だと思っていないからね。16歳のときに親父が死んで、すぐに働かなきゃいけなかったから、勉強したくてもできなかったんだ。本当の知性というのは、一見小さな物事についても、自分の頭で考えられることだと思うよ。知性の目的はお金を稼ぐことじゃない。自分の人生がどこに向かっているのか、理解できるような知性が欲しい。俺も若い人たちに助言をできるような年寄りでありたいよ」

 ブエノスアイレスでは、タクシー運転手が、思想家、文学者のような話をする。




ーーー1/29−−− 糸鋸盤を試す


 
静岡市清水にある木工道具店に行って、糸鋸盤を試した。何故わざわざここまで行ったかというと、この店では実機の試し使いをさせてもらえるからである。しかも、国内にはあまり出回っていない、高性能な外国製の糸鋸盤である。私が注目したのは、パラレル・アーム式というタイプの糸鋸盤。ネットで調べているうちにこのタイプの存在を知った。

 私が象嵌加工に使う糸鋸刃は、極めて細いものであり、強度が小さい。以前から使用している糸鋸盤に取り付けて試したことがあったが、電源スイッチを入れて動き出した瞬間に刃が切断した。それは、国内で一般的に出回っているタイプ(シリンダ・バネ式)というものであり、構造上強い張力が刃にかかるので、こうなってしまうのである。

 その時から、糸鋸盤を使うというアイデアは諦めた。糸鋸盤を使えば、疲れないし、スピードがアップし、加工精度も良くなるだろうと考えたのだが、用いるべき刃が使えないのでは仕方ない。従来どおり、手ノコで作業をするしかないと思った。

 その後、折に触れて調べるうちに、糸鋸盤の中にはパラレルアーム式というものがあり、外国製には高品質の機械があることを知った。それで、機械に頼る気持ちが再燃した。今回清水まで出掛けていったのは、そういう背景だったのである。 

 店に置いてあった糸鋸盤は3機種であった。早速試させてもらったが、一番安価なものは製品の精度がイマイチでだった。それは店の人も認めるところであり、候補から外された。二番目と三番目は、サイズが違うだけで基本的な性能に差が無いということであった。そこで、二番目のものに的が絞られた。私は大きなものを加工する必要が無いからである。価格はおよそ9万円。国内で一般的に流通している糸鋸盤と比べて、4倍ほど高価なものである。

 この機種は、刃の張りの強さと、上下動のスピードを調節することができる。張りの強さを最低にセットしたら、刃が切断せずに使えることが分かった。持参したサンプル板を使って、およそ1時間試し切りをした。いろいろ条件を変えて試した挙句、大いに迷った。気に入れば買って帰るくらいの意気込みで望んだのだが、そこまで踏み切れなかった。結局「検討させて下さい」と告げて、店を出た。

 糸鋸盤を使えば加工精度が上がると目論んだのだが、今回の試し使いではそのような実感は無かった。使用する刃が極端に細いので、切り進めていく方向が定まりにくい。何らかの理由で刃がぶれると、所定のラインから逸れてしまう。その何らかの理由が、予測できないところにたくさんある。時々刻々と変化する刃の切れ味にもよるし、材の木目の方向にもよる。切る速度すなわち材を刃に押し当てる力にも左右される。

 機械は粛々と正確に刃の上下運動を繰り返すのだが、刃が不用意によじれて勝手な方向に進んでいくのは如何ともし難い。刃が切り進む方向を安定させるためには、刃の張りを強くしなければならないが、刃が切断する恐れがあるのでそれもままならない。サンプル板に残された切り跡は、千鳥足のようなくねくねだった。

 これも、使い方に習熟すれば是正できるものなのかとも思った。しかし、本質的に無理なような気もした。導入して上手く行くかどうか、予想できない。そのようにリスキーな事に、9万円を投入することは、我が工房の現状の経済状態では難しい。

 自宅へ戻った翌日から、これまでの手ノコによる加工方法を再確認してみた。

 これまで無意識にやっていた行為も、あらためて検証してみると、なかなか興味深かった。手加工によるデリケートな調整が、最終的な加工精度に大きく影響していることが確認できた。0.1ミリ以下のずれでも、手ノコなら即座に認識できる。手で引く感覚と、刃の進み具合がリンクしているからである。そして、仮に少々ずれて切ってしまっても、刃をヤスリのようにして使って、修正することもできる。

 また、手ノコなら、引き方に変化を付けられる。切る方向性を維持するために、若干刃を前傾させると具合が良い。また、刃を前後にわずかに傾けたり戻したりを繰り返すことで、切るスピードが速くなる。こういう事は、刃が垂直に固定されている糸鋸盤ではできない。また、細かいところを切る場合は、一引きずつゆっくりとやる。例えば、直径2ミリ程度の円を切り抜く場合など、一回引くごとに僅かに材を回すということを繰り返す。そうすれば確実に切り抜くことができる。このようにして加工精度を上げるのは、どんなに材の送りを遅くしても、糸鋸盤では難しい。

 さらに、糸鋸盤では刃の中央付近しか使えないが、手ノコなら意図的に端のほうを使うこともできる。つまり、切れ味が残っているところを求めて、刃を全長に渡って使えるのである。また、刃の固定端に近い部分は、中央よりよじれ難く、切る際の直進性が良い。だから意図的に端の方を使うこともある。

 こうして見ると、手ノコのメリットというものは多い。比較してはじめて気が付くというのも何だが。

 糸鋸盤は、確実に垂直に切れる、スピードが速いなどの利点があり、その利用価値に異論を挟む余地は無い。しかしそれは、道具と言うものは何でもそうだが、適切な使用目的に合った場合のことである。極端に細かい加工となると、機械のパワーは却って邪魔なものとなる。最終的に頼れるのは、やはり人の手なのである。

 以前、服飾デザイン学校を見学したことがある。ちょっと驚いたのだが、実習室のミシンは全て足踏み式だった。「どうしてこんな時代遅れのようなミシンを使うのですか?」と訊ねたら、指導教官はこう答えた「創作には、一針一針縫う作業が大切なんです。足踏み式ミシンでないと、それができません」